移り目と変わり目の話
早く春になって欲しい、と願っていたら、いつの間にかもう春になっていたお話
寒い寒いと凍えていた冬も、いつの間にやら少しずつ春と交代をしていたようで
ただ、今年の春はあまりにも世界的には辛いものとなった
コロナが流行ってからというもの、飲食業界は大打撃を受け、非正規雇用の人間から痛手を食っている。自分含め、フリーターは今が耐え時なのだろうけど、とても辛い。
お店もめっきり暇だ。シフトも削られて、不安ばかりが募っていく
個人の変化としては、殆ど自分の家に帰ることはなくなった。
今は、恋人ともう一人の同居人と私の三人で暮らしているようなもので、冷静に考えて一つ屋根の下に男二人と女一人がシェアハウスでもないのに暮らしているのは、なかなかに異常な光景だと思う。
歪とまでは言わないが、しかもその一人の女が現時点ではまだ人妻であり、夫の元に何日も帰らないという字面だけで言えば完全に泥沼の生活だ
以前もたまにお世話にはなっていたものの、今じゃほとんどをこの家で過ごしているため、最早三人目の居候者として住み着かせてもらっている
下着などの着替えに洗顔フォーム、シャンプーリンスに歯ブラシに鏡……と、完全に「暮らして」しまうようになった
たまに自分の家に帰ると、逆に違和感を抱くくらいになった。そしてなるべく、夫の顔を見ないようにして過ごす
以前はそんな私に訝しげな顔をしたり、探ってきたり、そこから喧嘩になったりしたものだが、最近は薄々気付いているのかもう何も追及もして来なくなった
諦めたように、そのまま何事も無かったかのように顔を合わせた時は話をする。
その内、相手もセフレを作ろうとしてる話やピンサロの話など、堂々と浮気宣言をするようになった
私は念押しで最後まで言わないで、別れを告げようと思っていたが、離婚だけは避けていた夫がついこの間ようやく「別にいいけどさ」と受け入れるようになった。
何となく、その瞬間終わりが見えた気がした。
日付も籍を入れた8月8日に、キリよく二年迎えたらそこで離婚届を出そうということで話が着いた。
出し終わったら、そのまま最後に焼肉でも行こう、あの街を最後に二人で散歩しよう、と
私は、あの街が好きだった。
あの川も、土手道も、よく自転車で流したものだ。二人で浦安まで自転車で走ったりもした。
買い物もよく一緒に行っていたし、ご飯も一緒によく作った。
結婚したての頃は、とても仲睦まじく過ごしていたし、お互い支え合って生活していた。
犬の散歩も、二人だけの散歩も、どっちも大好きだった
思い出だけが、とても綺麗に鮮明に、私の中で呼び止める。
でももう、異性として、夫としては愛せない。そのものに未練は全くない、のに、恐らく三年は一緒に居た情だけが残っているのだろう。
いよいよ、期日を明確に決めた事で、はっきりと離婚するんだという現実が胸に突き刺さる。
クズな部分も最低な部分も、腐るほど見てきたし見せてきたよね、
それでも許し合ってきたんだよね。
私がどれだけ傷付けても、あの人はご飯を作って待っててくれていた
最後に思い浮かぶのは、喧嘩してる時ではなくあの優しさであることが、あまりにも辛かった。
腹を括ったつもりだったけど、もしかしたらどこかで覚悟を決めきれていなかったのだろうか
恋人に縋ってワンワンと泣いた。
恋人は責めることなく、頭を撫でて抱き締めてくれた。
せめて、せめて手酷い最後にしてくれなければ、私は居た堪れない。殴られた方がずっとマシで、罵声暴言を浴びて傷付けてくれた方がいい。
でも多分、あの人は最後に私の幸せを願って、痩せ我慢の笑顔で送り出してくれるのだろう。
そういう人だ。だから、結婚したのだから
その優しさへの辛さが、自分への罰なのだと思う
傷付けてくれる程の優しさと甘さは、無い方がいいのかもしれない。
自分で選んだ道なのだ。
血反吐を吐く思いをしてでも、自分で償う他ないのである
恋人を本気で選んだあの日から、私は何があっても自分で責任を取ろうと決めたのだから
コロナの影響で、花見が自粛になった。
三人で住んでいる家の近くにある神社は、本来は毎年大きな花見の舞台となっているらしい。
ただ今年は、屋台も神社がやる祭りも何も無かった。それでも、恋人と初めて行く花見がとてもとても嬉しかった
ずっと、春になって欲しいと願っていた。
ずっと、恋人と桜が見れることを楽しみにしていた。
恋人と一緒に見る桜は、きっととても美しくて、懐かしい風を感じられるのだろう、と
沢山の写真を撮って、ゆっくりと二人で歩いた。手を繋いで、隣街まで歩いた。
恋人と居る時の風は、いつもどこか懐かしくて、初めて行く所でも、なぜか匂いと空気が夕暮れ時のそれに染められたような、子供の頃の一瞬を思い出させてくれるような感覚になる。
例えその子供時代が幻想であったとしても、それでも感じるものは「懐かしさ」で
桜を見終わって、そのまま彼の店の常連様がやっているという天麩羅屋に行って、とても美味しい天麩羅を食べた。
本気で美味しさを噛み締める恋人の表情を初めて見た。
お酒も料理も美味しくて、大将の人柄も本当に良くて、あれなら常連になるのもよく分かる、と納得がいった
素敵な食事の時間を過ごして、外に出ると丁度いい夜になっていた。
春の宵風と、淡く白く光る夜桜が、あまりにも綺麗で、泣きたくなるくらい美しかった
あの夜を、あの春を、あの桜達とあの街を、あの空気を、恋人と共有できたことが嬉しくて
あの日は自分の中で、あの海を見たあの日に並ぶくらいの宝物となった
ふと、寄りかけた喫茶店を、今度は恋人と行きたいと思う
改めて思うのだ。
恋人を選んで良かったと、悔いは無い、私は間違ってなかったのだと
何度見ても、一番美しくて、私の好きな物が全て似合う。花も月も夜も風も和の美しさも何もかも。
何時間だって眺めていられる顔や姿は、自分の中では宝石に近い。
何より、恋人と一緒に居る時は、いつだって自分の中の何か、形容し難いノスタルジーが全てを包み込んでくれる
触れ合う肌も、匂いも何もかもがあまりにも自然と自分に溶け込んでしまうから、本当に私とこの人は他人だったのだろうかと思ってしまうほどで
前世があるとしたら、兄妹とかだったのではないかと思う
触れていることが、触れている所が、溶けて混ざり合ってしまうような錯覚に陥る。それ程までに気持ちいい
抱かれて眠ることが当たり前になっている近頃は、一人では眠ることさえままならなくなった。
何があっても、何を言われても納得して受け入れてしまう。
私はもう、この人からは離れられないと思う
この間実家に帰ったら、色々と環境が悪化していて
、私の中での家族に対する「絶対」の概念が崩壊してしまった。
恥ずかしい話だが、私の家族への感覚は小学生の低学年あたりで止まっている。
祖母もまだ元気に仕事をしていて、父はたまの休みにどこかお出かけに連れて行ってくれて、母はご飯や美味しいココアをいれてくれる
家族団欒は確かにあったし、食事時皆でテレビを観ながら話をする、そんな家庭だった。
勿論、そんなものは徐々に変わっていってしまうし、私が高校生だった頃はむしろ家庭環境は最悪で、死ぬの死なないの死ねだの離婚だの、諸々ぶつかりあったものだった
それでも、大人になってから変わったし、自分が家を出たことで、ある意味バランスが取れるようになって、たまに帰ると昔のような家族に会えるのが嬉しくて、頻度は少なくても帰れるのを楽しみにしていた
けど、離婚するということ、恋人の話、今の職場の話、そして今の自分とあんまりにも変化が大きすぎることと、やはり歳は皆必ずとるもので、家族も私も変わってしまった。
絶対の味方だと思っていた母は、経験のなさとものを考える頭がより弱くなってしまったらしく、思考放棄のメンヘラとして生きていた。
パニック障害や統合失調症、発達障害などの様々なものが悪化していて、まるで話にならなかった。
祖母は相変わらず重度の認知症で、話をした一秒後には全く同じ質問を繰り返す。
そして認知症の悪化と共に、私への過保護具合も重症化しており、人をまるで幼稚園児か何かと思っているかのような心配の仕方をする。
父親があまり変わらないのが幸いだったが、やはり、歳をとった。
多分、一番変わってしまったのは私で、彼らを家族ではなく、最後のお金の拠り所として認知してしまったような、そんな最低な気分に襲われた。
人として話が通用しない、壊れた人形達と話をしているような、本当にそれくらい話が通じない。
家族であろうが縁を切る時は切る、と、今までの自分だったら絶対に言わないことを平然と言ってしまった自分が一番恐ろしかった。
母は、恐らくもう私を自分の子供と信じられないのだろう。
恐らく祖母は、私の事を心配しながら亡くなると思う、明らかに間違った心配の仕方のまま。
娘よりも孫を気にかけて、その歪みは絶対に母に行くと確信している。
父の人生はこれで良かったのだろうか?
私もどうして、こんな風になってしまったのか分からない。けど、どこかで確かに道を踏み外しているのだろう
段々と物の見方が変わっていく。こうして、二十数年自分の中で「絶対」だったものが、「絶対」では決してなくなっていく。これを成長と呼べば聞こえはいいが、何か取り返しのつかない悪路への一途を辿っているような気しかしない。
人に対しての諦めを、この一年で経験しすぎたのだろうか。
裏切り、裏切られ、騙し騙され、先立たれ、遺され、新たに出会ってはまた誰かを無くしていく。
移ろいゆく自分の中が、良いものなのかも分からないまま、ただ時間と日々に流されていく
何があっても、というものは、無い。
あまりにも私は、全ての事を受け入れ過ぎてしまうようになった。
強さといえば強さなのかもしれないが、それは逆もまた然り
何か恐ろしいものになっているのではないかと、少しだけ怖くなってしまう。
話が逸れたが、兎にも角にも私の二十五年信じてきたものが崩れて、壊れてしまった。
そして、生涯を誓ったはずの人間とも別れの目処を立たせ、仕事も今は休みやら時間の削りやらで打ち込むに打ち込めず、いよいよもって、私には恋人しか居なくなってしまった。
自分の中が、空っぽになってしまったような、大事なものをボロボロと、そこら辺に落としてきてしまったような、
その空白に、恋人がすっぽりと隙間を埋めてくれている。私の中で、恋人の存在を「絶対」にして、自分自身を洗脳しているかのように刻んでいく。
この人が居てくれればそれでいいと、一つずつ自分の中のくだらない思い出を消していく
多分この先一生、私はまともな人間にはなれない。人としては欠陥品、それどころか最早半壊してるような人生で、この先何をどうしていくのだろう
それでも、きっとどうにかなるし、どうにかできるから、強く生きていくしかない。
私の中の絶対を、今度こそ自分に定めて、この美しく愛おしい想い人と共に歩んでいくしかないのです